ネットリテラシー、伝え方

今回はネットリテラシーと伝え方について書く。

このテーマにした理由はSNSやニュースで試験が不合格であったことについて様々な書き込みがなされていることを目にしたからだ。

正直自分でも伝えたいことを上手く書けているかはわからないけど最後まで読んでいただけたら嬉しいです。


まず前提として、ある人物や関係者の一連の問題について、私は擁護しようとも、否定しようとも思っていない。なぜなら、その一連の問題について自分の意見を言えるほどの正確な情報を持っていないからだ。


その上で、冒頭に書いた通り、昨日一昨日と試験が不合格であったことについて、様々な書き込みを目にした。その中には酷い言い方だなと思うものがいくつもあった。

時と場合によるけど、誰に何を言うかは個人の自由であって他人にはそれを止める権利がないのはわかっている。

ただ少なくとも自分らは話題になっている試験を経験したわけではないのだから、意見を言うにあたって、当事者がそれに向けてどんな思いでどんな風に過ごしてきたのか、可能な限り想像した上で発言するべきだと私は思った。


これはその試験は大変なんだから他人が口出すなとかではなく、どんなことに対してもという意味でだ。


自分なりにしっかりと想像した上で当事者に対してやはりマイナスな意見がある!!ってなったならそれは意見を発信すればいいと思う。

ただ想像した上での意見なら、表現の仕方が、選ぶ言葉が変わってくるんじゃないかと思った。

少なくとも経験したことのないことに石を投げるような表現にはならないと思う。


常にめちゃくちゃ考えてから発言しろって言いたいのではない。そんなに考えてたらパンクすると思う。ただ最低限、相手のことを考えるという視点は持つべきなのでは?ということだ。

今の社会、情報自体はさまざまなところに転がっている。でもその情報を全部見ることは現実的ではないし、目にした報道もどういう切り取り方をした上で自分たちに提供されているものかはわからない。

しかもネットという不特定多数の人が見られる環境に、自分が会ったこともない人に対しての意見を匿名で発信しようとしてるわけだからなおさらちゃんと考える必要があると思う。


ちゃんと考えてみれば会ったこともない人に対してネットで意見を発信するのはやめておこうってなるでしょ?と言いたいのではない。むしろ人が共存するには互いに意見を発信し、歩み寄ることが不可欠であるから発信することはとても大切なことだと思う。

私が言いたいのは発信するときに相手がどう感じるかを考えるべきだと思うということだ。


正直、今このテーマのブログを書いていて怖い。なぜなら、冒頭で述べた通り、一連の問題に対して私は擁護も否定もするわけではなく、あくまで中立の立場で書いてきたつもりだが、「擁護も否定もしないって言ってるけど、正直ちょっと擁護寄りなのでは?」と読んでくれている人は感じる可能性もあるからだ。

すると、私はこのブログを通して、「発信するときに相手がどう感じるか考えるべきだ」ということを伝えたいのに、中立ではなく擁護派だと捉えられることで、私がこのブログで伝えたいことは極端に言えば「一連の問題についてある人を擁護する。だから、ネットで批判するのはやめろ。」ということだとなってしまう恐れもあるからだ。


自分がどんなに中立で書いてきたつもりでも、読んでくれている人からしたらそうとは思えず、ギャップが生じ得る。

このギャップが生じてしまうと、伝えたいと思って発信しているのに、伝えたいことが伝わってないかもしれないと思ってしまい、寂しい。でも、このギャップはまさに相手がどう感じるか考えようということを示していると思う。

もし今回ギャップが生じてしまったのなら、それはまだまだ私の発信の仕方が甘く、相手がどう感じるか考えきれていないということだ。

自分が相手に伝えたいと考え、相手がどう感じるか、どう表現したら伝わるか考えていくことで、相手もこの人は何を伝えようとしているのか?と歩み寄ってくれるようになり、お互いがギャップを埋めようとすると思う。

だから伝えたいことが伝わるように、逆に伝えようとしてくれている場合は相手に歩み寄ることをもっと頑張ろうと思う。


拙い文章を読んでいただきありがとうございました。上手く伝わってると嬉しいです。(そもそもこれ読んでくれてる人の中にネットで暴言書いてる人なんていないけど笑笑)


以上